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端午の節句

4月も半ばが過ぎ、5月のゴールデンウィークも近付いてきました。仕事の移動中にふと周りを見てみると子供の日を迎えるべく鯉のぼりはためいているのが目にはいってきます。

さて、子供の日というと外飾りは鯉のぼり、内飾りは五月人形・鎧兜を飾るのが風習のようですが、その理由は特に考えた事がなかったので調べてみました。

鯉のぼりは、天の神に男児が誕生したことを報告すると同時に守護を願う目印として飾るようになりました。中国の伝説から、鯉は池でも沼でも生きられる生命力の強い魚で、環境の良し悪しに関わらず立派に成長し、立身出世するよう願いを込めるという意味もあるようです。ちなみに、鯉が竜門の滝を登ると竜となって天をかけるといういい伝えがあり、そこから「登竜門」という言葉ができたということです。

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鎧兜は、古くから命を守る象徴として考えられていていたため、男の子を事故や災害から守るものとして考えられてきたようです。実際に武田信玄愛用の「楯無の鎧」は、代々武田家のご神体で、現在も山梨県塩山市の菅田天神社に奉られています。他にも多くの鎧兜が、国宝やご神体として各地の寺社仏閣で奉られています。ちなみに、五月人形・鎧兜は持ち主の代わりに厄を引受ける役割を持っています。父親からの譲り受けや兄弟兼用ではなく一人一体が望ましいようです。

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脇道に逸れますが、上記に出てきました武田信玄愛用の「楯無の鎧」について書きたいと思います。この鎧は、かつて源氏が保有していたとされる伝説の八つの鎧「源氏の八領」のひとつとされています。この「楯無の鎧」も含めて解説しますと、保元の合戦で源為義が使用した「薄金」、平治の乱で源朝長が使用した「沢瀉」、同じく平治の乱で源義朝が使用した「楯無」、八つの龍の飾りがついている「八龍」、源頼朝が身に付けていたという「源太産着」、牛百頭の皮を使った「膝丸」、保元の乱で源頼賢が使用した「月数」、保元の乱で源頼仲が使用した「日数」とあります。様々な説がありますが、現存する鎧は「楯無」だけとなっているという説が有力なようです。その「楯無」も平治物語で表記されている仕様と菅田天神社に現存している仕様が違うとも言われています。ただ、この「楯無」は現在、「小桜韋威鎧」の名で国宝に指定されている事もあり、貴重な存在である事に変わりはないので菅田天神社(山梨県甲州市)の近辺に行く予定があれば見学に行って戦国時代に想いをは馳せてみるのも一興かもしれません。

リフォーム部 原田

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— posted by 吉原建設 at 11:53 am  

吉原建設株式会社