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古事記編纂1300年

 昨年は、古事記編纂1300年の節目の年でした。

 宮崎県には神話伝説が数多く残っているので、節目の年の昨年は県内に神話ブームが巻き起こるものと期待していましたが、今ひとつ盛り上がりに欠けていたように感じます。とは言え、イザナギが「禊(みそぎ)」をした「禊ぎの池」のある江田神社では多くの観光バスを見かけましたし、本ブログでも数名の方が「記紀」について投稿され、また、書店に高く積まれた「記紀」の書籍が書店を訪ねる度に低くなっていくのを見て、多くの方が「記紀」を読まれていることを実感しました。

昨年の初め頃だったでしょうか。あるテレビ番組で、明治天皇の玄孫で作家、法学者の竹田恒泰氏が次のように紹介しておられました。「イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー氏曰く『自国の民族の神話(歴史)を学ばなかった民族は必ず滅びる』」と。この言に触発されて、昨年は、読書は古事記から始めることにしました。私が古事記を読んだのは随分と昔のことで、20年以上も前になります。記憶に残っているのは、天照大御神の天岩戸隠れや須佐之男命の八岐大蛇退治、大穴牟遲神(オオムナヂノカミ/後の大国主神)の因幡の白ウサギ、山幸彦と豊玉姫の竜宮伝説、倭健尊の熊襲征伐位のものです。

 早速、古事記を購入し紐解きましたが、冒頭から天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、 高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)などの舌を噛むような神の名が登場し閉口しました。このような神々が250柱余登場します。そこで、神々の名は無視して一通り通読することにしました。これで大筋のストーリーは解りましたが、多くの解らない壁にぶち当たります。その一つが神武天皇以前の時代背景です。この世に初めて現れた神々の時代はいつ頃だったのか。日本列島が形成された12000年頃(石器時代で日本に人類が移住してきた頃)なのか。日本列島が大陸から分離された10000年前頃なのか。はたまた、縄文時代なのか。弥生時代なのか。

どうしても解らないので、この際、自分流歴史年表を作成することにしました。古事記以外の後々のことも考えて、地球誕生から現在までを作ることとし、地球誕生から石器時代までは数十億年〜数億年単位で、縄文時代は数十年から100年単位で、紀元以前の弥生時代は数年単位で、紀元以降は1年単位で作成しました。エクセルで作成した行数は2500行位になり、縦列に時代名や元号、歴代天皇名、日本の主要な出来事、世界や中国、朝鮮半島の出来事などを埋め込んでいく訳です。縦・横ともに大きくなり過ぎて見づらいレイアウトになりましたが、ワクワクする楽しい作業でした。お陰で古代中国や朝鮮半島の各時代の興亡、十二支、十干、干支、陰陽思想、五行思想、仏教、道教、漢字の伝来などとの関係などで少し解ったこともありますが、多くのことは解らず仕舞いでした。そこで、古事記の解釈本や謎解き本を買いあさって読むことになる訳ですが、お陰で古事記の書籍が十冊を超えました。古事記研究者の諸説を総合すると、伊邪那岐命(イザナキノミコト)と伊邪那美命(イザナミミコト)の国生みは縄文から弥生の移行期のようです。そして、邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨(天照大御神の孫が天から地上に降り立ったの意)は弥生前期のようです。これも諸説であり、真実は解りません。これからも書籍を買いあさることになりそうです。

 考えてみれば、古事記三巻のうちの一つ巻と二つ巻の前段は神話なのですから謎が多くて当然です。謎が多いから夢やロマンがある。疑いを持たずに素直に読む。これが基本かも知れません。

 それにしても、古事記の編集者は凄いものです。古事記は稗田阿礼の語りを太安万侶が文字に書き表したと言われています。古事記が編纂されたのは713年のことです。神武天皇が即位されたのが紀元前660年ですから1373年以前(この以前と言うのがいつの頃まで遡るのかが解らない。)のことから第33代推古天皇までのこと書き記している訳です。

 その記憶を現在に置き換えると次のようになります。

稗田阿礼と言う記憶力抜群の語り部がいて、1373年以前のことから語り始めます。今年から数えて1373年前は、640年になり飛鳥時代の中期です。古事記の編纂が奈良時代初期ですから古事記が編纂された以前のことから語り継がれてきた記憶を語り始める訳です。その語りを聞きながらキーパンチャーの達人、太安万侶がキーパンチキーに入力していく訳です。語り継がれた時代は漢字が伝来していない文字のない時代ですから、この記憶力や凄いものです。文字がなかった時代だから成せた技でしょうか。因みに徳川家康が天下を取ったのが約400年前です。

「ひむか神話街道」も日帰りで行ってきました(巡ってきたとはとても言えない)。それぞれの地の神話ゆかりの神社などを参拝・散策するつもりで計画を立てましたが、距離・時間計算をしたところ、とてもではないが散策の余裕のないことが判明しました。仕方なく、神話街道ドライブに変更しての神話街道走行になり、かなりの強行軍でした。

都城の自宅を出発したのが昨年夏の午前5時、高速で松橋ICを経由して起点の天照大御神の岩戸隠れの高千穂町天岩戸神社に到着したのが午前8時過ぎ、神社で二礼二拍手一礼の参拝をし、近くでサンドイッチとコーヒーを購入して起点出発。後はカーナビ、地図、ひむか神話街道の道路標識を頼りに、ただただ車で走るのみ。五ヶ瀬町〜椎葉村〜美郷町南郷区〜木城町〜西都市〜佐土原町〜宮崎市〜日南市〜北郷町〜田野町〜山之口町〜高城町〜高崎町をひた走り、終点の神武天皇生誕地の高原町皇子原公園に到着したのが午後6時30分頃。自宅到着午後7時。成果はひむか神話街道の道路状況を把握できたことのただ一点。疲れました。次回は地域を3区分して神話の里巡りを3日計画で実行したいと思います。

最後に・・・・・・・出会った古事記の書籍の中には、創り話だ。史実として根拠がない。との説もありましたが、近年の考古学者の調査研究により、事実ではないと否定されてきたことが事実であると確認された事例もあります。また、昨日(20日)のニュースで報じていたように、日本最古の巨大前方後円墳で邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒミコ)の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳で考古学研究者らによる墳丘への調査が行われたようです。また、新たな事実が判明するかも知れません。

7年後の2020年は、日本書紀編纂1300年の節目です。今暫く古事記に親しんだ後は、わが国の歴史書日本書紀の全30巻に挑戦することになりそうです。

   「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」

              江戸時代の国学者本居宣長の詠んだ和歌です。

 建国の精神や民族の誇りを忘れることなく、日本人としてのアイデンティティを見失わずに大和心を堅持したいものです。

                    宮崎本社 鈴木 安則

— posted by 吉原建設 at 08:15 am  

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